カトリック世田谷教会の沿革



世田谷教会は、正式の名前は洗者聖ヨハネ教会といい、故今田健美師によって創設されました。何処の修道会にも属さない、全く外国の援助に頼らないでできた数少ない教会の一つです。

< 今田師焼け野原に立つ >

 1945年、酷暑の中にむかえた終戦の8月、下北沢は駅を中心とする2キロ四方ほどを残して一面の焼け野原であった。その年の10月、前後4年に及ぶ軍隊生活から漸く復員した陸軍軍曹今田健美師(36歳)は、早速、土井大司教を訪れ、小田急沿線のどこかに新しく教会を建てたいという希望を申し述べた。かつて喜多見教会の主任司祭をつとめた師は、この地域の発展性を予想しておられたのである。 明治の初期の函館で早くもカトリックに改宗していた一家に生をうけ、しかも父を失ったのちの少女時代を修道院で養育されたという母君の薫陶のもとに育った今田師は、また北海道の開拓者魂にも燃えて、一日も早く布教にはげみたいと切望しておられた。師はおそらく東京の焼け野原に、荒野に叫ぶ先駆者、洗礼者ヨハネの姿を思い描かれていたのであろう。当時東京のカトリック教会の数はわずか12、3にすぎなかった。土井大司教は「土地もないしお金も出せないが」という条件で今田師の申し出を快諾された。

 その頃は進駐軍のジープが東京中を我が物顔に走り回り、目ぼしい焼け残り住宅を米軍将校用に接収してまわっていた。今田師は幸い下北沢在住の人望ある開業医加藤普佐次郎氏の紹介で、接収をきらった東京帝国大学航空研究所長 中西富士夫博士の邸宅の二階を借りられることとなり、現世田谷教会は渋谷教会という名称で(最初の予定地が渋谷区代々木八幡であったため)1946年3月10日に発足した。最初のミサの出席者は4名。 それが次第に増えてついには中西邸の階下の壁にひびが入る様になった頃、運よく現在の土地を入手し聖堂が建つことになった。

 土井大司教のご支援もあったがこの間の今田師の活躍ぶりはまさに超人的で、聖堂の建物はフランスから運んできて府中墓地にあったのが、当時の都の規制に合わずそのままになっていたのを移築したものであるし、樹木や下草が生い茂る傾斜地を造成して二段にする労働や聖堂の建築工事にまで、今田師は大工や職人たちに混じって大奮闘であった。当時今田師の故郷函館から寄贈された北海道特有の樹木はいまでも敷地のあちこちに残っている。


 聖堂の建物は、むかしフランスから輸入された鉄パイプの骨組みを使っており、古い建物で少し手狭ですが緑の木々にかこまれ、春はうぐいすが、夏はせみが聖歌に声をあわせます。

 信徒会館のかまぼこ兵舎は、戦後の米軍放質物資という歴史的記念物です。信徒一同、この由緒ある教会を心から大切にしております。


<世田谷区に最初の唯一のカトリック教会>

 こうして1948年4月4日に、土井大司教により、洗礼者聖ヨハネを守護の聖人とする聖堂の落成献堂のミサが行われ、この時名称も正式にカトリック世田谷教会と改められた。次いで1951年のクリスマス直前には聖堂が拡張され、天井には「見よ、神の子羊を!」というギリシャ語の語句が掲げられた。次に今田師は信徒会館より先にルルドをと、どこかのプールの改築で捨てられたコンクリートの塊を入手して、いわば手造りのルルドを構築し、1956年7月にはフランスからマリア様にご像を迎えた。そして、その2年後の1958年の秋に、二階建ての司祭館と米軍放出のカマボコ兵舎3棟を巧みに組み合わせた信徒会館を完成させた。今田師はこうして外からの援助なしに日本人の力で、日本人の心で教会を建設するために精魂を傾けられた。

 この間、敗戦による自信喪失のあとで漸く新しい価値観を模索するに至った日本人は、頼るべき信条を求めて教会を訪れ、ミサにあずかる人びとの数も次第に増えるとともに、今田師による公教要理に集る求道者は120人を超え、席がなくて立ったまま耳を傾ける者、あるいは戸外に立って窓越しに聞き入る者も多いという状況であった。さらに今田師の布教活動は教会内のみに止まらず、慶応、早稲田、東大、東京女子大、聖心、津田など各大学や日本銀行、外務省、最高裁などの職場に設けられたカトリック研究会の指導司祭として週に14ヶ所にも及んだ。

 こうした日夜を問わぬ多忙な活動をかげで支えたのは元海軍少将の伝道師竹岡健治氏であったが、さすがの今田師も過労のあまり1952年3月に結核で倒れ、約2年間の入院生活を余儀なくされた。その間主任司祭代理として勤めたのは荒井金蔵師であり、また今田師退院後には世田谷教会にも、神学院を卒業したての若い神父がたが助任司祭として着任することとなった。


<主任司祭の交替>

 1971年4月、今田健美師は四半世紀におよぶ世田谷教会での司牧をあとに(その間育った出身司祭は十人に及ぶ) 多くの信者たちに惜しまれながら浅草教会に移られた。 しかし今田師の心はいまも世田谷教会の一木一草にはっきりと刻みこまれている。

 今田師の後任は志村辰彌師のはずであったがご病気で入院されたので、荻窪教会主任司祭でありかつ白百合女子大学教授でもあった佐久間 彪 師が、白柳大司教の代理として「代理主任司祭」という肩書きで”当分の間”世田谷教会の司牧に当たることになった。そして佐久間師の着任とともに、1965年に閉幕していた第2バチカン公会議による変革の影響はいち早く世田谷教会に浸透する事となった。 そして、東京教区典礼委員でもあった主任司祭佐久間師のご指導のもとで、司祭と信徒がひとつになって、日本人に親しまれる典礼のあり方を考え実践するよう、司教様からの御委託を受け、特に主日のミサについて、典礼のモデル・実践教会として、色々な試みを行うお許しを頂いてき、心をこめたミサをささげることが出来るよう三十三年間、皆で努力してまいりました。

 2003年4月20日、三十三年間の長きに亘り、私達をお導き下さいました主任司祭 佐久間 彪 師が定年を迎えられ、4月20日の復活祭を最後に退任されました。   


 2003年4月21日より後任の主任司祭には町田教会の前主任司祭 関根英雄師が就任されました。


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